ツァンダ → センゲ・ツァンポ (獅泉河)
八月十六日。早朝七時起床。ツァンダの町はまだ眠っている。北京との時差およそ二時間だから、まだ向こうの五時頃か。支度をすまして荷物を車に載せ、朝食は昨日食べた「川粤飯荘」でとるつもりで行った。七時半に注文して待っているうちに、客がぞろぞろ入ってきた。軍人もいた。作る量が増えたためか、料理は一時間後にやっとできた。お粥に肉饅、漬物。まさに「起大早、赶晩集(早起きはしたけど、三文の得はなかった)」で、朝に弱いわが輩にはちょっと勿体ないことだった。昨日は日曜日で郵便局が休み、今日の平日でも十時半から営業開始なので、絵葉書の投函をマダムに頼むしかなかった。
九時に、ツァンダを出発してセンゲ・ツァンポに向かった。朝日に照らされて斑なす土林、仏塔や仏像やさまざまな造形を思わせるような浸食谷、車はその中を走り抜けていく。柔らかい地層に容易に石窟を掘ることができるからだろうか、この地域に七世紀まで続くシャンシュン王国時代や十七世紀まで続くグゲ王国時代にできた石窟遺跡を数多く発見した。住居として近世まで利用されていたという。黄土高原にあるヤォトン(穴居)と同じように、外気の気温変化にあまり影響されず冬は暖かく夏は涼しい。この地方の気候に適した合理的な住まいだったろう。半時間たったころ、急に宇宙が広がったように、中国とインドの辺境に連綿たる雪山が気勢よく聳え立つ雄大なパノラマが目の前に展開した。十一時に「偏誤橋」を通過。さんざん手こずらされたわれらがジープに恐れをなして、来た道を引き返さないで、アイラ(阿伊拉日居)山脈の五一〇〇メートルの峠ルンガル・ラを越え、パール兵站からセンゲ・ツァンポに向かう道を選んだ。
パール兵站で一昨日救援してくれたトラックの運転手たちが、別れの挨拶をするために、わざわざ待ってくれていた。スペイン客の荷物を載せて今日はカンリン・ポチェに向かうという。骨を刺す寒さの河水に飛び込んで助けてくれたことが忘れられない。そういえば、ぼくがチベット好きになったのは、自然の雄大な気勢と濃厚な宗教色および多様な民族文化もさることながら、チベット族の人たちの心根が優しく友情を大切にすることにも負う。近代化によって利便性が与えられると同時に、人間性が損なわれ、誠実さと友情が奪われる昨今の都会生活に比べ、チベット族の人はいつも真心をもって、素直に暖かく迎えてくれる。そして、厳しい環境にあるためだろうか、互いによく助け合う。旅の経験でこの点を痛感させられている。
草もあまり生えない荒涼たる大地に、黄砂が風に舞い上がっている。一休みしているところ、石油タンクを載せてゆらゆらと向こうからやってきたトラック三台が、唸りながら巻き上げた埃をぼくらのビスケットに遠慮なくかぶせた。センゲ・ツァンポの町に近づくと、急に「天路」と名づけられた、贅沢すぎるほどりっぱなアスファルトの道になった。広い大地に道がまっすぐ伸び、まさに延々と続くはてしない滑走路だ。それまでの道とあまりにギャップが大きかったので錯覚したのだが、走っても走ってもこちらは飛び立ちそうにない。とうとう数日間の疲れがどっと襲いかかってきたようで、しばらく朦朧としていた。七十キロの「天路」を一時間ほどで完走し、夕方センゲ・ツァンポの町に入る。
獅子の口から流れ出しているという伝説から名付けられたのがセンゲ・ツァンポで、インダス川の上流である。街を流れることから、「獅泉河鎮」という町名になった。ヒマラヤ山脈、ガンディゼ山脈、カラコルム山脈に囲まれ、海抜は四三〇〇メートルもある新興の町だが、一九六四年に新蔵公路(新疆・カルギリクからチベット・ラズーまでの二一九国道)ができるまでは、一面に広がる紅柳(ギョリュウ)が燃え立つところであった。一九六六年にアリ地区行政府と、一九八八年にゲル(噶爾)県政府がこちらに移り、特に中央政府から「西部大開発戦略」が打ち出されてから目覚しい経済発展を見せ、いまやにぎやかな町となっている。郵政賓館に荷物を降ろして町へ出かけた。
赤信号はまったく無視され、「みんなと」でなくてもゆうゆうと渡る。街路の両側に商店や雑貨屋や料理屋が軒を並べ、床屋、薬屋もよく目に入る。地元はもとより、ほとんど四川・青海・甘粛から来た人が商いをしているが、そのうちには、新蔵公路という交通の便に恵まれた新疆から来る人が少なからずいるようだ。アリ地区は長い間新彊ウイグル自治区の管轄下に置かれたこともあって、日常生活の面では、例えば内陸では物を買う時の重量単位が斤(五百グラム)に対し、こちらは新疆と同じようにキロ単位で計算するなど、新疆による影響がいまでも大きい。アリ地区の経済発展は地元の取り組みのほか、中央政府からの財政支援と新蔵公路による物資輸送に頼るという構図になっているが、道路の整備をきちんとしないことには経済の発展は望めない。ウイグル族がもうもうと煙をたてながら、威勢よくシシカバブーを売っていて、香辛料の匂いが鼻を刺激する。
「十里香菜館」という料理屋に入った。生のままでは心もとないので、炒めや煮込み料理を頼んだ。「胡椒羊蹄」(胡椒入り羊蹄の煮込)、「蒜茸青根菜」(チンゲン菜の大蒜入り炒め)を注文した。「マダム」はきれいな湘妹子(湖南省から来た女の子)で、料理もなかなかうまい。彼女の話によれば親戚に呼ばれて一昨年ここに来たが、商売がうまく行ったので、店を拡張してご覧の通り先月この新しい店を新規開店したという。食後、散歩に出かけて、「獅泉河橋」からゆっくりと流れるセンゲ・ツァンポを眺めた。車やトラクターが騒々しい音を立てながら頻繁に橋を渡るので、なかなか落ち着かず、河畔にできたゴミの山からも早く目を逸らしたかった。明日の朝食用に、焼きパンと牛乳を買ってホテルに戻る。海抜が高く植生も少ないせいか、酸素希薄で呼吸が苦しく、睡眠中に何回も目が覚めた。
センゲ・ツァンポ → ルトク → バンゴン・ツォ
八月十七日早朝、センゲ・ツァンポから二一九国道に沿い、ルトク(日土)を経てバンゴン・ツォ(班公錯)を目指す。チベット文化の雰囲気がだんだんと薄れてきたように感じ、タルチョやマニ石もあまり見かけなくなる。道路事情は実に悪く、でこぼこで道らしい道はない。荷物を驚くほど高く積みあげた新疆ナンバーのトラックが埃を巻き上げ、重たそうに喘ぎながら対面から走ってくる。広々とした荒原に赤茶けた山肌が延々と続く。「センゲ・ツァンポ峠」を越えたころ、広大な山麓に中国のA級保護指定動物であるチベットロバが視野に入った。時には人間など眼中にないとばかりにゆっくり走り、時には警戒心を高めて加速して走るのに感心させられる。
九十キロ走ったころ、道端右側にある岩山の石刻画が目に入った。リモタン(任姆棟)の石刻画である。チベット語で、リモタンは「鬼神の絵」を意味する。下車して見ると、動物や植物や日・月・山など自然界を反映する紋様を中心に、放牧・狩猟・舞踊・騎馬、祭祀など仏教到来以前のチベット先人たちの生活を反映する場面が多数刻まれ、抽象記号や文字もある。岩画の規模は寧夏の賀蘭山ほどではないが、すべて生命のあるものに対する崇拝を個性豊かな造型彫刻で記録し、古くて異なる生命の意義を静かに伝えているようだ。単純な線で描かれたものだが、生き生きしている。それに対し、テクニックに囚われる近代芸術の無力なことは奈何ともしがたい。
十分ぐらい走ったところへ、小さな湖があらわれ、水辺に群れなす斑頭雁が棲んでいる。車から降りたら、雁の群れが驚いて飛び立ち、輪となって湖の上空を飛び回った。十二時半頃ルトク県城の町に入り、北や南に聳え立つ雪山が視界に入った。ここは昔から兵家によって争われてきた要衝の地である。一九六一年にルトク県が設けられた当時は新彊ウイグル自治区の管轄下に置かれたが、一九七八年にあらためてチベット自治区アリ地区に編入された。チベット自治区で北西端に位置するルトク県は、人口が七千に対して面積は七五四〇〇平方キロもあるので、人口密度は一キロ当たり〇・一にも満たない。北は新疆ウイグル地区と隣接し、西はインド・カシミールと国境がつながっている。
午後一時頃、碧水が一面に広がった風景が現われた。インドとの国境に跨る湖バンゴン・ツォである。雪の山々に囲まれ、宝石のように透き通る美しい碧水を眺めてすっかり豊かな気分になった。バンゴン・ツォはチベット語で「白鳥の首のような」を意味する。東西の長さ百六十キロにおよぶ細長い湖で、海抜四二四二メートル、最も深いところは約六十メートルもあるという。面積は六百平方キロメートルあり、そのうち四百十三平方キロは中国域内にある。ルトク雪山とインド雪山がそれぞれの立場を主張するように荘厳な輝きを放ち、向かい合って聳え立っている。一九六二年十月に中国・インド間で国境紛争が発生した当時、バンゴン・ツォの北岸で戦闘があった。
不思議なことに、同じ湖なのに、中国領内の湖水は淡水で魚がいるのに対し、インド・カシミールの領域は塩水で魚がいないという。この湖には黄色っぽい「裂腹魚」がいる。文字通り白い腹部の真ん中に深い裂痕があるように見える。この裂腹魚は刺身にすればとても美味しいということだが、挑戦する勇気がなかった。
湖畔にこれもまた四川人マダムが経営する「魚荘」がある。四十歳前後の彼女は早口のうえきつい訛りでまくし立てるために意味が分かりにくいが、魚料理の腕はなかなか大したものだ。蒸し魚、魚頭スープ、魚煮という三種類の作り方で料理してくれた。特に牛乳のように煮だした白い魚スープは、チベットに入って以来最高の味だった。腹いっぱい食べて一人二十元が相場。魚は食べないといっていたニーマさんを誘ったら、美味しい美味しいと連発して平らげた。チベット族で魚を食べる人は多くないようだが、食べないわけでもない。「春の魚は国王でも入手できず、秋の魚は乞食さえ相手にしない」というチベットの諺もある。この時入ってきた一組の客は、躊躇せずにさっさとメニューを注文した。味のよく分かる常連に違いない。マダムの話では、翌日はアリ地区の視察団の予約が入っているとか。評判の美味なので、ここを通りかかる人は必ずこの味に舌鼓を打つだろう。
二十人乗りの観光汽船に乗って鳥島を遊覧した。ニーマさんを誘った。最初は途中でエンジンがとまるのではないかと怯えていたが、しぶしぶ乗ってくれた。汽船が鳥島へ進むにつれて波が裂かれ、四十分後に到着した。鳥島は思うほど大きくないが、五、六月頃になると、鴎などの多くの渡り鳥が地中海から飛んできてここで繁殖するという。多い時は七万羽に達するというが、いまシーズンオフのため、百羽ぐらいしかいなかった。十七時半頃、バンゴン・ツォの乗り場に戻る途中、エンジンが不意にとまった。さすがにニーマさんは真っ青になって「ワタシは泳げないよ」と連発してうろたえた。十分ほど経って、エンジンが直り無事に乗り場に到着した。バンゴン・ツォは今回の旅の終点となり、ここがチベットと新疆に分かれる地点である。さらに進めば荒原の向こう六千七百メートルの峠を越えて新疆の境域に入るが、ぼくらを乗せて車はセンゲ・ツァンポへ戻っていく。
車が巻き上げる砂ぼこりに閉口したが、夜の九時頃ようやくセンゲ・ツァンポの町にたどり着いた。風がひゅうひゅう音を立てながら吹きつづけている。明日からラサに帰る。帰路は、センゲ・ツァンポからゲギャ(革吉)、ヤンフー(塩湖)、ゲルツェ(改則)、ドンツォ(洞措)、ツォチン(措勤)、ダギャツォ(打加措)を含む北ルートで帰るよう強く主張したが、無人地域ばかりで野宿が多いうえ、土石流が頻発し、道路事情がさらに厳しく通過車は少ないため、車が一旦はまったら助からないから絶対だめだと、ニーマさんは頑として承知しない。確かに一理も二理もあるが、気持的には残念でたまらなかった。さすがに連日の疲れがたまっていて、体中だるい。インスタントラーメンを啜って十一時頃、寝床についた。 (次回につづく)
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