禅文化研究所発行の季刊『禅文化』の連載記事。
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聖域巡礼 私の目から見るチベット(198号所収)

西チベット・アリへ行く(3)

李 建華(り けんか)

禅文化研究所客員研究員・北京在住

写真・李 叡(り えい)


ダルチェン → ムルツェン(門士)→ ツァンダ
 ナムナニ峰が朝日の光を受けてきらきらと輝く。麓一面に広がった高原に虹が天地を繋ぐようにかかっている。それを伝って登ればナムナニ峰頂まで行けそうだ。なんて美しいのだろう、どんな絵も叶わない。十四日朝食を済ませ八時半頃にカン・リンポチェの麓から、ジープが走り出した。チベットのグランドキャニオン・土林へ三六〇キロメートル。チベット高原の天気は変化が激しい。つい先ほどまで晴れ渡っていた青空が知らぬ間に曇り、黒雲が車を追い越すように覆ってくる。雨が降ってきた。急に土砂降りの大雨になった。見渡す限り、山々や野原が煙雨の中に霞み、雪山から流れてきた川は見る見るうちに漲ってきた。須弥山が妖雲に隠れ、シバ神が宇宙を狂わせたよう。この無限の大地に人影はなく、車の影も見えず、羊やヤクの群れさえどこへやら消え、ただわれわれのジープだけが独り疾走している。
チベットの運転手ニーマさん 数本の川を渡って、また一つ、目の前の道を川が遮った。運転手のニーマさんは車を降り、様子を確かめてから車に戻り、大丈夫と言いながら発進しようとする。このあたりの川幅は狭いが、水の色から深そうに見えるので、川幅の広いところを選んで渡ろうと僕が言ったのを、頑として聞こうとしない。案の定、見事にはまって立往生。オークメンタをかけても前進も後退もしない。力み続けた反動で、どんどん沈む。進退窮まったところへ、水が車内に入ってきた。このままでは助からないと思って、神山の麓のダルチェンへ救援を求めるつもりでドアを開け、いきなり川水に飛び込んだ。とたんに、骨を刺す寒さを肌で感じ、言葉の意味をかみ締めた。雪山の水はなんとも冷たい! 海抜の高い高原で風邪をひけば恐ろしい、そう考えながらもメロスよろしく山に向かって懸命に走った。山はすぐ目の前にあるが、着くまで十六キロもあるという。
立往生したわれわれのジープ 雨が降りしきり一向に止む気配はない。着るものはびしょびしょに濡れている。川を渡りかけるが水が深くて渡れない。二、三キロくらい走ったところで、雨に煙る川の向こうに「東風」のトラックが視界に入った。大声で叫んだが、声が雨音に吸われてまったく伝わらない。手を振りながらジープの方向を指して合図した。川が邪魔でトラックは右往左往しながら、とにかくジープの方向に走るのが見えた。よかった。助かった。トラックが来たころ、ジープはすっかり浸水し、助手席や右側の後部座席まで水に浸かっていた。僕が現場についた時には、ジープはまだ動いていない。トラックのチベット族運転手と助手が躊躇せず、水に飛び込んでロープを仕掛けようとしたが、差し込みのカギホックがないので、引き上げに手間どった。それに川水の冷たいこと、とても一分と持たず、仕掛けに何度も水と岸辺の間を走って往復した。しまいに道具箱からU型のホックシャックルを見つけ、うまい具合に工夫してやっとのことでロープを掛けることに成功した。ジープが引き上げられドアをあけた途端、車内から水がどっと溢れ出た。一時間半経ってようやく救出された。百余年前、日本人の僧・河口慧海はネパールのジョムソン地域からヒマラヤの峰を越えて、身分を偽りカイラスを巡礼したのだが、このあたりで水に呑まれそうにならなかったのだろうか。

気勢雄大なドリン

 トラックはわれわれと同じツァンダへ行くということなので、同行を求めたら、快く受けいれてくれた。お昼にムルツェンに着き、「新都餐館」でラーメンで腹ごしらえし、十三時十五分に出発。つい最近、ムルツェン域内にシャンシュン文明時代の五大古城の一つチョムロン・カルドン(琼隆所ケ爾東)と称する古城遺跡が見つかったと報道されていた。十四時四十分、パール(巴爾)兵站を経由してまもなく山道に入った。山道は峻険で、下を見れば眩暈がするが、怖いもの見たさに谷底を覗く。ここでは車の運転のミスは許されない。一歩間違えば、数百メートル下の崖まで転落する恐れがある。四八三〇メートルの峠を越え、ロンガ橋を渡ったら、いよいよ荒れはててもの寂しくなった。見渡す限り、目には黄色の土とまばらの「匍地柏」(はいまつ)が映るばかりで何もない。水はない。人っ子一人いない。鳥の鳴き声さえ聞こえない。気持ち悪いほどの静けさだ。「この世に捨てられたようで悲しい」と叡がつぶやく。
 十八時に所ケ站橋で待ってくれたトラックと合流して一休み。流れる渓流を見て親友に遇ったように嬉しい。橋のたもとに「一九八四年八月一日中国人民解放軍三六一一一、三六一〇七部隊建」と書かれた石碑が建っている。すると、この道は二十数年前にできたのか。よくもこんな人里離れたところに道をつくったなあと感心する。四十キロくらいでツァンダに着くから、もう少しの辛抱だよ、とトラックの助手が言うが、彼らのいう距離は当てにならない。
 十九時に加崢橋を渡ってまもなく、気勢雄大なドリン(土林・旱溝)が目の前に現われた。蛇のようなくねくねの山道を上ったり下ったり、左へ右へ曲がるにつれて、ドリンも消えたり現われたりする。巨大な大仏や居並ぶ羅漢像さながらの岩壁も、長い長い歳月をかけた堆積地層と侵食などで、自然の造化による芸術品に彫琢されている。ヒマラヤ山脈とガンディゼ山脈との合流地点にあたり、サトレジ河が湖を形成していたころの堆積物が地上に出たもので、侵食の結果こうなったというが、想像を絶する景観である。ランチェン・ツァンポ(象泉河)を隔ててツァンダ県城がすぐ近くに見えるのに、ジープはまたエンコしてへばった。頭に来る。夜になるのが遅くなかなか暮れない。
 十一時頃にツァンダに入る。もともとゴンパの名を取ってトリン(托林)と呼ばれていたが、一九五六年にツァンパラン・ゾン(扎布譲宗)とダワ・ゾン(達巴宗)が合併し、両方の頭文字を取ってツァン・ダ「札達」と名付けられ、一九六〇年にツァンダ県ができ、アリ地区の管轄下におかれた。面積は二五〇〇〇平方キロで、人口は約五千。五平方キロに一人。「電信賓館」に泊まった。浸水したトランクを開けたら、衣類やら本やら絵葉書やら全滅。特に『ぼくらの村にアンズが実った』(高見邦雄)の中国語版のための翻訳原稿を道々校正し、半分までできたものが水に浸かって、手書きした箇所のインクは紙面に滲みて読みとれない。口惜しい。紐を掛けて一つ一つ濡れたものを出して乾かすしかない。お湯を届けに来た優しそうなチベット族女性服務員は、部屋中に干してある衣類を見て目を丸くした。よくもまあこんなにたくさん洗濯をしたもんですね、と感心しきりの態。ウーン。

トリン寺(托林寺)→ グゲ(古格)王国遺跡

トリン寺(托林寺) 

 昨夜疲れたので、ちょっと寝坊した。九時起床。ビスケットとインスタントコーヒーの朝食をすましてベッドを片付け、さっそく昨日水にやられた本やら絵葉書やらをならべて乾かす作業をはじめた。海抜三五〇〇メートルのツァンダ県城は、ランチェン・ツァンポの畔にあり、気候が乾燥しており、摂氏二十五度ぐらいでしのぎやすい。泊まっている賓館から歩いて五分のところにあるトリン寺に行った。全国重点文化財になっているほどの名刹なのに、門番はいない。入場券は要らないのだろうか、と思って入ってみたら、赤の袈裟を纏った年寄りのラマ僧がひとり、ぼーっとして日向ぼっこでもしている様子だ。入っていいかと聞いたら、どうぞと言わんばかりに見て見ぬふりをして、答えるのもおっくうそうだ。見学者がいない。各寺院の門が閉まっている。これから改装をするのだろうか、木材や石があちこちやたらに積んである。トリン寺前にあるあの改装されたばかりの派手な広場のような、中途半端の改装では困る、と思った。
 十二時半頃、トリン寺を後にし、車でグゲ王国遺跡へ向かった。途中、便乗したいと頼まれて乗せた女性は、野生動物蔵齢羊(チベットカモシカ)保護のボランティアとして南京からココシリ(可可西里)に行って三カ月滞在し、任務を全うしたあと、七月十八日にゲルムト(格爾木)を旅立ち、チベット北部高原へ野生動物を撮影するために来ているという。女性一人、ヒッチハイクだけで安多、ゲルツェ(改則)、センゲ・ツァンポを経由してここまで辿りつく、さぞ難儀しただろうと、これまた気が遠くなる。女性は強い。
グゲ王国の廃墟 考えてみれば、僕の愛読書『太陽の光と荒原からの誘惑』(巴荒)、『西の阿里へ行く』(馬麗華)、『阿里』(畢淑敏)は、みな女性作家の作ではないか。大都会からこの荒涼とした大地へ、十年も二十年も放浪のような生活を続けた彼女たちの、厳しい大自然に身を置きながら綴った迫力満点の、しかも美しいエッセイに心打たれる。「わたしは一日中、ただぼーっとして雪山と向かい合うことがあるが、それこそ文字通りの「面壁十年」だ。修行などを意図しなかったのに、蒼穹と果てしない荒野に対面させられ、氷河が万里を走り、渺茫として人気がない。星くずもとてつもない大きさに見え、あたかも宇宙がそこら辺をめぐってまわっているかのようだ」(畢淑敏)。ああ、もはや言うべきことはない。
驚嘆させられる美しいグゲ王国の壁画 グゲ王国の廃墟はランチェン・ツァンポの畔に佇み、十世紀から十七世紀に至るまで栄えた西チベットの地方政権の都城の遺跡だ。遺跡の面積は約十八万平方キロだそうだが、見た感じではイメージより小さい。山を伝って建築されたせいかもしれないし、内陸の物差しを持ってしてはなかなか測れないかもしれない。入場券を買わなくても入れるが、壁画が見られないという。せっかくだから二枚買う。一枚百五元、安くない。山頂までは三百メートルだが、登ると汗だくになる。先ほど入場券売り場でトランプ遊びをしていた女の子の一人が鍵を手に追ってきて寺院の門を開けてくれる。白殿に続いて紅殿の順に入る。暗さに慣れる度にわが目を疑うばかりの、仏像の造型のすばらしさに、また色鮮やかな壁画の美しさに驚嘆した。この地には古くから人々の往来があり第四のシルクロードとして栄えたため、文明の開花も早かったのだろう。
 八四二年、中央チベットで吐蕃王朝が崩壊したあと、王家の一部が西チベットへ落ち延びてグゲ王国を建てたといわれる。遺跡に残る仏殿の壁にも吐蕃王朝とグゲ王朝の親戚関係を示す世系図が残されている。グゲ王は荒廃した仏教再興のため、カシミールへの留学僧派遣や、カシミール様式の寺院建築、壁画の導入などに力を入れた。そして、一〇四二年にインドの高僧アティーシャを招聘した。その教えはガダム派を生み、以後のゲルク派の源流となった。しかし、仏像と壁画の破損状態がひどく、文化大革命の時もかなり壊されたという。山麓から山頂にかけて、六百余りの王宮・寺院・仏塔・洞窟・砦などがすべて廃墟と化し、土林と重なって、どれが建てられたものか、どれが天然のものか見分けがつかない。太陽の光は真上から降り注ぎ、酸素希薄も加わって喘ぎながら登って行く。ようやく山頂まで来た。昔日の王宮はいまやガランとしてなにもなく、赤色が入り交じった残壁が静かにグゲ王国の興亡を語っている。土塊と化した廃墟が広がるばかりで悲しくなる。熱風に吹かれて山頂から広大な景観を見下ろしながら、千年の往昔に輝いた王国に思いを馳せる。当時十万の衆もあったグゲ王国はなぜ楼蘭王国と同じように急に消えたのか、そのわけをいまだ知るすべがない。

ランチェン・ツァンポに沈む夕日

 夕刻五 時半頃にツァンダに戻り、「川粤飯荘」で昼食兼夕食をとった。アスファルトの道が一本しかない小さな街の両側に商店や食堂が並んでいる。どこでも食堂があれば、必ず四川人がいるのだから、四川料理は多い。四川の綿陽から来たという三十代の主人に、人口が少なくしかも観光客さえ簡単に来られないのに、経営は持つかと聞いたら、中央財政に胡坐をかいている当地だから、経済が成り立たなくても収入はちゃんと保証されるので心配ご無用。三年前に出稼ぎに来たが、今はもう自分の店を構えるまでになった、と得意そうに喋った。料理はわるくない。明日はセンゲ・ツァンポへ行くのだなあ、と呟きながら食堂を出た。「上班後想一想什麼還没做、下班後想一想什麼不該做」(出勤したらまだしていないことはなにか、退勤したらしてはいけないことはなにか、考えよ)と、壁に大きく書かれているのが目に入った。なるほど……
 ランチェン・ツァンポに沈む夕陽が美しい。(次回につづく)
 

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