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聖域巡礼 私の目から見るチベット(197号所収)

西チベット・アリへ行く(2)

李 建華(り けんか)
 

禅文化研究所客員研究員・北京在住

写真・李 叡(り えい)


ラサからマユム・ラ峠まで
 西チベット・アリへの出発だ。
 八月八日早朝、小降りの雨をついて、ゲーサン・ピンツォさんのお母さまとお姉さまドォジーさんに見送られ、用意した水やら果物、食品など所用の品々を車に載せてシガツェへ出発した。運転手はチベット族で運転歴十二年のニーマさん、日焼けした真っ黒な顔の三十五歳。従来の三一九国道(始発は上海で、終点はネパール国境にまたがる「友誼橋」まで全長五四七六キロ)は工事のため、ヤーンパチン(羊八井)からジョグラ(雪古拉)峠経由の道を走ることになった。ヤーンパチンはさすがに地熱がゆたかな地だけあって、トイレの水洗にまで地熱による暖かい水が使われているのには感心した。標高五〇〇〇メートルを超えるジョグラ峠を通過した時には、その主峰チョム・カンは茫々たる雲に隠れて見えなかったが、強風になびくタルチョの群れが今にも飛び立って行きそうに見える。夕刻無事シガツェにたどりついた。シガツェはラサについでチベット自治区第二の都市である。十七の県とシガツェ市からなるシガツェ地区の首府でもある。タシルンポ寺(扎什倫布寺)は煙雨の中で変わらぬ美しさで輝いていた。一四四七年にツォンカバの高弟であるゲンドゥン・ドゥブ(後にダライ・ラマ1世と呼ばれる)が創建したタシルンポ寺は、ツォンカバを開祖とし、現在最大の宗派であるゲルク派に属する六大寺の一つである。二年前の同じ時期に長野県山遊会ご一行と拝観したことがある。「聖康賓館」に一泊。
広がる菜の花畑と子供たちの無邪気な笑顔が美しい 八月九日、雨中出発。ラツォ峠(四三〇〇メートル)を通りかかったら、シチェ村の一面に広がる菜の花畑の黄色い花が美しく、はしゃいで寄ってくる子供たちの無邪気な笑顔がまた一段と美しい。「ラズー――上海人民広場五千キロ」とある記念壁が立つ村の入り口で、車のショックアブソーバーのナットを落としたことに気づき、スピードを落としながらやっとのことでラズーまで辿り着いたら、ナット一本に五十元もぼられた。以後、車のトラブルに付き合う毎日となった。車の修理を終えたのが十五時、腹はもうぺこぺこ。町のレストランでトマトスープ、回鍋肉(豚肉とピーマン・キャベツ辛子味噌炒め)、宮爆鶏丁(鶏肉と唐辛子落花生炒め)を食べて六十元。ラズーを離れる時は快晴だった。ラズーから二一九国道(始発は新疆の葉城で、終点はチベットのラズーまで全長二三四二キロ)に入り、四三六〇メートルの峠から眺めるプルシー(普勒日峰、六四〇四メートル)の雄大な景観に息を呑んだ。「美しい今宵も静寂に包まれ、草原に我が琴音のみ残らん。遠方の彼女へレターを出さんとも、それを託す郵便屋のいないことが……」。独特なかすれ声で、人気歌手刀郎の歌う歌が車のなかで響いた。十七時四十五分にンガムリン(昂仁)県城到着。サンサン(桑桑)入りは二十時半ごろになり、鄙びた「桑桑賓館」に泊まった。美味しそうに見えた「木耳肉片」(木耳・牛肉の細切り炒め)、「猪蹄竹笋」(豚足・筍の煮込み)は実に不味かったが、「肉絲面」(ロォースーメン)はけっこう美味かった。海抜が高いせいもあって、サンサンでの一夜は寝袋に潜っても寒かった。
悠然とした佇まいのオグロヅル 翌日の朝食時に国土資源部地質研究所の調査グループの四人組と巡り合った。トラック一台とトヨタT六二型ジープをチャーターしてアリ地区のトゥマ(多瑪)への地質調査の途中だという。ホルチュまで同じ方向なので同行できて心強かった。気持ちのよい快晴。大きな山の麓の沼に不意に黒頸鶴(オグロヅル)を二羽発見。さすがに非凡な気質をもつ仙鶴だけあって、悠然と羽づくろいに専念していて、人間の存在などまったく無視。オブロンの雪山と雨後の虹が交差しているさまはとても綺麗だ。名も知らぬ峠を下降し、滔々と飛沫を上げて奔流するヤルツァンポの支流ドゥシュンツァンポ(多雄蔵布)に沿って走りはじめた。道は狭く、対向車同士がいまにも墜落しそうな、ぎりぎりのすれ違いをやるので、手に汗を握り、肝を冷やした。激流に巻きこまれるさまを想像したり、足を踏ん張ってやたらにブレーキを踏む動作を繰り返す。峠を越えるところで、大学生風若者三人が自転車を漕いで現われた。西へ行くほど出会う車と人間が少なくなるせいもあって、都会と違い親近感を感じる。
立ち話をしてみると、北京大学、ソウル大学、深曙V大学の大学院生で、六月十五日に新疆のウルムチから出発し八月末までにチベットのラサ到着を目指してのサイクリングだという。聞くだけで気が遠くなりそう、愚行と思えるほどの若い勇気に脱帽。午後二時に二十二道班に到着。遠くに雪山が光っている。「四川菜館」で昼食、「茸・豚肉のスープ」は美味かった。十七時半にサガ到着。辺境検問所ではじめて検問を受ける。北京の公安部辺境管理局発行の辺境通行証を差し出し、登録されてパスした。
溝にはまったトラックの惨めな姿 八月十一日、また車のトラブルで予定の九時出発より五十分も遅れたおかげで、朝食時に地質調査グループの紀さんが熱弁をふるった。中国はいま経済過熱と、文化と道徳という三大危機に直面している云々。同感だ。高原の気候は不安定で雨は降ったり止んだりを繰りかえす。出発してまもなく、先発したトラックが路傍の溝にはまった惨めな姿が目に入った。道が洪水で流され小さい橋が崩れたので、避けようと道端から強行したはずみに見事にはまってしまったのである。二台のジープがロープをつけていくら引っ張っても、ビクともしない。こんなアクシデントには慣れっこになっている土地のチベット族の運転手さんはすこしも焦らず、雨に濡れながら悠々とタバコをくわえ、一時間後に魔法使いのようにトラックを泥水から救い出した。えらいもんだなーと感心していると、今度はジープのトラブルに梃摺らされる。焦ってもどうにもならない。暇つぶしに蒋さんが石を弄びながら自説を一くさり。これら地上の石はみな五億年以上の年齢をもち、百万年前に崛起したチベット高原の海底の非常に深いところにあった岩だよ。おれはプレートテクトニクスに賛成できず、地球膨張説を主張する。つまり、地球の南半球が北半球の体積より大きいため、大陸の移動を促したのだ、と。一理はあると思う。チベット族の女の子がじーっとこちらの一行をみつめ、別れるときに仲良く手を振って挨拶してくれた。あまり辺鄙なところなので、容易に人に出会わないためだろうか。車に揺られながらの夕刻にループカンリ(羅波崗日峰、七〇九五メートル)をはじめ連綿とつづく雪山の上を、雲が蛟龍のように飛びかう気宇広大な景観が目の前に迫り、それが悠然と動くヤクや羊の群れと一つに重なって、見事な油絵となった。茶館が見えた。通行者のためにバター茶を飲ませるぐらいの小屋だが、くつろぎの一時を得ただけで有難い。インスタントラーメンを頼み、昼食の入っていない腹がおかげで大分落ち着いた。小屋に聖なる山のポスターがベタベタ貼られ、カイラス、エベレスト、メーリン雪山以外に名前を知らないものは一つ。聞いたら、昌都地区にあるマブジンポラーと言われたが、やはりわからない。その隣に毛沢東の画像が神様のように祭られてある。新ツォンバーに着き、夕食を済ませて土で固めたような招待所に泊った。運転手を入れて調査隊の六人がトランプを楽しみはじめた。

雪山の上を蛟龍のように飛びかう雲と悠然と動くヤクや羊の群れ
 

 八月十二日、朝早く起床。叡と出かけて雪山を撮る。食事を終え九時出発、昼にパルヤンに着く。小さい町だが、湿原みたいな広々とした草原と雪でまぶしく輝く山々に遠くから見守られている。「重慶飯店」で昼食をとった。すごい名前だが、四川人が経営する五坪ぐらいの小料理屋。えらいでっかいハエが窓ガラスにじーっとへばりついて動かない。十九時二十分、四六六〇メートルのマユム・ラ峠に着き、検問所で通行手続きを終え、山の麓にある日干しレンガ作りの平屋「シカツェ旅館」に一泊。旅館の裏に山があり、手前に小川が流れている。チベットは水に不自由しない。通る道々によく渓流が道を遮って流れるくらいだから、道崩れにしょっちゅう悩まされる。叡は裏の山に登り、灰色の玉が動いていることに気づいて、五秒ほど睨めっこしたが、すばやく向こうへ走った。キツネじゃないかと疑ったが、野ウサギかもという。ウサギとキツネは大分違うはずなのに、すっかり参った。僕も山を登ったが、途中で呼吸がきつくなり、あきらめて山を降りた。簡単に夕食を済まし、風邪気味の叡は漢方薬を飲み、はやく寝袋に潜った。夜がすっかり更け、雪山から流れてくる水の音に聞き入りながら、お伽話に出てくるような銀河の星が一杯にまばたく夜空をじーっと見上げて、チベットは天に近いなあ、と実感した。

聖なる湖・神の山

風になびくタルチョ

  十三日早朝マユム・ラ峠を出、昼頃ホルチュを通過してまもなく、大きな輪となって無数の五色からなるタルチョが風になびく風景が目に入った。青は空、白は雪、赤は火、黄は土、緑は水という意味で、チベット族の典型的な祈りの象徴だから、これまでも見てきたが、その経験ではタルチョさえあれば、必ず礼拝の対象となる山や水があることが分かり下車する。遠い彼方にブルーの帯が見えているのは、仏典では須弥山のふもとにある無熱池と同一視される聖なる湖「マパユム・ツォ」で、僕が思いを馳せ続けた念願の夢だ。
遠路はるばるやってきたチベット族の巡礼者たち 私たちはツァンダに向かうため、地質研究所のみなさんとはここで別れる。五日間の道づれですっかり親しくなり、別れは寂しい。「センゲ・ツァンポまで道はまた遠くさらに厳しい。これから君たちは単車になるから、くれぐれも気をつけてくれたまえ」と、年配の蒋さんにいわれてじんとしてくる。「あなたたちも」と感謝をこめて別れをつげ、握りあう手に「頑張れ」が伝わってくる。聖湖は一周すれば六十四キロあるそうだ。エメラルドグリーンの湖の彼方の山々は積乱雲に覆われている。層雲が重たそうに垂れ込めているのは「神の山カン・リンポチェ」だ。顔を出してくれるだろうか、と気を揉む。清らかな水を思わず手で掬い口に運んだ。甘い。美味しい。鴨か鴎が悠々と向こうを泳いでいる。湖畔伝いに遠くの山へだんだん小さくなっていく夫婦か親子か分からない男女二人の後ろ姿を眺めながら、いま北京は、いや世界はどうなっているのか、ちらっと脳裏を過ぎった。波が岸をやさしく叩き、雑音一つない。ずっとここにぼんやりしていたいが、そうは行かない。湖畔を伝っての道は勾配になって車は転がりそう。叡と体を左に寄せてバランスをとる。どれぐらい経ったか、急に西のほうは暗くなり、ヒューヒューと風がすごい音を立ててまさに山雨来たらんの勢いを感じた。下車して振り返ると、絶句した。すごい山だ。その重圧感といい、カンロクといい目の前に迫る気勢に圧倒された。波がうねるような雪を頂く稜線が途中から雲に隠れて頂上が見えない。マパユム・ツォを隔ててカン・リンポチェと向かい合うところだから、ナムナニ峰に間違いない。
神の山カン・リンポチェ、聖なる湖マパユム・ツォを前に拝むインドの巡礼者 一九八五年に中国・日本合同登山隊が初登頂以後、一躍有名になったナムナニ峰は、チベット語で「聖母の山」を意味する海抜七六九四メートルの山で、ヒマラヤ山脈の主高峰の一つだ。今度はカン・リンポチェが真正面によく見える位置に移った。お寺の傍、右側一〇〇メートルほど離れたところに停車した四台のオンボロトラックから巡礼者たちが降りてきてテントの設営でバタバタしている。長い旅の末だろうか、埃まみれの服に真っ黒に日焼けした顔。また車の左側一〇〇メートルほど離れた湖畔に、インドからやってきた信者たちが縦に並んで湖畔へゆっくりと進み、足が湖水に浸かると横並びに列を組み替えて頂上に少しばかり雲が掛かっているカン・リンポチェに向かって、インドから携えてきた水か何かを湖に注いでいる。その敬虔な巡礼の姿に大変感銘を受けた。カン・リンポチェは六六五六メートルで、ガンディゼ山脈の最高峰であり、『アビダルマ・コーシャ』に基づく仏教の世界観で世界の中心にそびえ立つとされる須弥山と同一視され、ヒンドゥー教徒はこの山を彼らの至高神シバの王座とし、ジャイナ教徒は開祖が悟りを得た地とし、そしてポン教徒は彼らの開祖シェンラプが天から地に降りたった場所として篤い信仰を注いでいるところだから、最高の聖地となって巡礼者が訪れる。河川の母なるマパユム・ツォの四面に北が獅泉河(センゲ・ツァンポ→インダス川)、東が馬泉河(タムチョ・ツァンポ→ブラマプトラ川)、西が象泉河(ランチェン・ツァンポ→サトレジ川)、南が孔雀河(マプチャ・ツァンポ→カルナリ川→ガンジス川)という四水の源頭を持っているということだから、インドの信者も山河を越え、遠路はるばるここまで巡礼する労を厭わない。

須弥山と同一視される神の山カン・リンポチェと河川の母なる湖マパユム・ツォ

 カン・リンポチェが顔を見せてくれるか、どきどきわくわくしながら待つこと四十分。見事にすっかり姿を現わしてくれた。感激で胸が一杯だ。その荘厳な姿との出会いは、誰にとっても生涯の最高の思い出となるはず。「金瓶のようなお山にお寺はないけれど、美しい景色を去るに忍びぬ。鏡のような西海に龍はいないけれど、紺碧の海水を喜ばずにはいられぬ」。これは六十年代に中国で非常に流行っていた歌で、その歌詞にある「金瓶のようなお山」「鏡のような西海」はほかでもない神の山カン・リンポチェと聖なる湖マパユム・ツォをさすとは知らなかった。突風で帽子が吹き飛ばされたら、「聖なる湖の恵んだ幸運だ」とニーマさんが言う。マパユム・ツォを離れ、強風に吹かれながらダルチェン(塔欽)に向かう途中、若い男女二人から便乗を頼まれ、なんで人影も見えないこんなところにいるのかと聞くと、温泉に来ているという答えに、まさかと吃驚仰天。二十五キロも離れているパルガ(巴暑ャ)から湖畔まで車に便乗して来たが、帰りに通る車がないため、あきらめて歩いて帰る途中だったという。車に乗せパルガで降ろした。プラン(普蘭)方面とシガツェ方面に分岐するパルガは軍駐屯地の近くにあるため、検問所が設けられている。検問を受けるとき、さきほど便乗した男は当番の兵士に、「きみ、この人たちは好い人間だから、通してやれ」と命令口調で言った。なんだあ、検問所の親分か? おかげで待たされずにささっと通してくれた。善果応報か……
 夕方、神の山の麓・ダルチェンに辿り着き、「聖地餐庁」というレストランで夕食をとってくつろいだ。三十代で蘭州からきた主人は、毎年渡り鳥のように五月から十月末まで奥さんとここに来て商売をするという。料理の量が多いので、なかなか食べきれない。チベット族の青年が入ってきた。明日の巡礼にガイドはいらないかと聞いた。カン・リンポチェを一周すれば三日間かかるので、時間的に余裕はないし、体力にも自信がないことを考えると、断念せざるを得ない。神の山に対する誠意さえあれば、廻らなくてもいいことが訪れると、青年に言われた。有難い。「親分、ご飯を二杯くれ」とご飯だけを注文する青年を不思議に思ったところ、「お下がりをくださらんかね」と突然言われてびっくりしたが、食べ残しでわるいけれど、これほど自然なこともないだろう。食事が済むと、周囲が真っ暗になった。新しく建てた「ガンディゼ賓館」に泊まり、一人八十元取られた。安くない。夜十二時に停電ということだから、大急ぎで充電作業にかかった。(次回につづく)

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