わたしの生家は、東京の下町の典型的な木造家屋だったが、当時としてはひどく変わった間取りだったことを覚えている。玄関前には笹の植え込みがあり、たたきは那智黒様の玉石が敷き詰められていて(家ではアブラ石とよんでいた)そこを斜交(はすか)いに横切るようにして自然木の一枚板が懸けられ上がり框(かまち)の役をしていた。その小料理屋のような玄関とは対照的に、いちばん奥の洋間には天井から作りつけの本棚があり、横にはデンチクとよばれた大きな電気蓄音機がでんと据えられていた。七十八回転のSPレコードはトスカニーニの「セヴィリアの理髪師」、フルトヴェングラーの「エグモント」、ワルターの「未完成」、コルトーの「雨だれ」などがあった。さらにその書斎兼居間に隣接して、いまでいうオープンキッチンがあった。ラワンの一枚板がカウンターでありそこで木の椅子に腰掛けて母の調理をみながら食事をしたが、キッチンの背にガラス戸をはめたホームバーがあって、まさにスナックのような雰囲気だった。このモダンな家がじつは秋葉神社の敷地に建っていて、その神主が大家さんだった。だから秋のお祭りには御輿(みこし)がでて家の前の通りには夜店がズラリと並び、テレビのない時代の子どもにとって何よりの楽しみだった。さらに神社は町内会の集会所を兼ね、正月や祭礼その他もろもろの町内のイベントはなんらかのかたちで神社と関わっていた。むろん町内のひとはみなこの神社の氏子だった。
ところがわたしの母は熱心な日蓮宗の檀徒であり、わたしたち兄弟は毎朝かかさず仏壇のまえで法華経をあげ、毎月一回はお寺参りをさせられていた(いまでも法華経の一部をそらんじている)。だがこうしたわが家の宗教的二重帳簿はけっして特異なのではない。神仏習合という言葉がそらぞらしいくらいあたりまえのことだった。おそらく日本国中の町村がそうだっただろう。
平成十三年度宗教年鑑によると神道系信徒数が約一億八百万人、仏教系が九千五百万人で合計すると優に二億人を超えてしまう。つまり日本の総人口を超えるわけで、神道・仏教の信徒二重登録が一般である証拠となる。むろん神道と仏教はまったく異種の宗教だから、このことは「イスラム教とキリスト教を二重に信仰しているひと」というくらい奇異なことのはずである。どうしてそうなるのか? 古くて新しい疑問につきあたる。
まず、神道と仏教とを「宗教」という言葉で安易にひと括りすることがただしいのか、と思う。宗教というものをごく簡単に「魂の救済」ととらえてみる。すると、心の悩みや人生の疑問といった重い課題を解決するのに寺や教会に足を向けることはあっても、神社へいって神主さんにすがる、というのは聞いたことがない。つまり神道とは、どうも魂の救済とは無縁のところで成り立つ何かであるらしい。
先日、宇治平等院を参拝する道すがら宇治上神社にたちより、そこの神主さんのお話を聞く機会をえた。この神社は世界文化遺産に登録された貴重な国宝社殿を擁している。なぜ貴重かというと、この社殿は今日のように独立した拝殿形式になる以前の、拝殿・寝殿一体型の社殿なのである。つまり貴族が生活の場と信仰の場とを同一次元で捉えていたころのなごりであるらしい。本居宣長のいう「神ながらの道」、日本民族固有の自然宗教としての心の価値観・美意識のありようがまだ生きていたころのなごりであるらしい。
古代日本人は、老荘思想のような「道」の形而上学や儒教の仁義道徳の思想や仏性の自覚を厳しく問う仏教思想とは無縁であった。さらには「神道」として体系化された思想とも無縁だった。古代日本人の宗教とは、生活の場が自然への畏敬崇拝として浄化され、また律せられることだった。そこには分裂した近代自我によるエゴイズムは存在せず、さらにはキリスト教のような神への絶対服従と審判といった強烈なドグマもありえなかった。ただただ純粋に「神ながら」なのである。それは「道」ですらない。しかしこの一見とらえようのないヤマトゴコロは、儒教・道教・仏教・キリスト教の外来種の襲来によってコテコテに「思想としての神道」に化けざるをえなかったらしい。
明治期にいたって神の依りしろとしての祠(ほこら)社(やしろ)までもが国家神道の組織的統制に組みこまれ、「神イコール天皇」制に再編されるに及んで、神道は近代以降完全に宗教としての要素を剥ぎ取られてしまった。たとえ戦後に国家神道という亡霊は消滅しても、神社のたたずまいは生活習俗としての年中行事、祈願所、文化遺産としてのみ生き残っているにすぎない。だが、である。日本人にとって神と仏のあいだは、それほど遠いものなのか。
伊勢神宮や出雲大社を参拝しても、なんら宗教的感動をおこさない今日の日本人というものも、逆説的にいえばひとつの「神ながらの道」の完結した姿であるのかもしれない。
たとえば神前結婚・宮参り・七五三・十三参りといった一連の流れは人間の成長にそった「心のかたち」として日本人が培ってきたものであり、そのかたちの深奥に潜むかたち無きものこそは神ながらという無意識の安息であろう。これを単に民俗風習としてかたづけるわけにはいくまい。すると、その無意識がゆえに再認識を怠ってきた現代日本の精神風景のゆがみと貧困が、かえって「神性」への不可触さを際立たせるのである。触らぬ神に祟りなしではなくて、がんらい触れることができないという至純さへの無意識が、際立つのである。すると「神仏習合」という日本人独自の宗教感覚は、神と仏の良いとこ取りではなく、神も仏も先験的な安息の場としてとらえ、あえて分離させる必要もなかったからではなかろうか。宗教教理としては水と油ほども違う神仏は、日本人の日常の営みのなかでは無意識下に沈潜して、あたかも母性のもたらす絶対の安息のようにはたらき、ことさらにあげつらうものではなかった。それは現代日本人の無宗教や無節操と一脈通じるものではあるにしろ、禊やお祓いは清浄法身の概念と同一視され、御神体と御本尊は形の違いだけであり、けっきょく「社寺」というひと括りの聖域として収まってしまうのである。神と仏のあいだは意外と「遠くて近い」距離なのである。
ならばなおさら神ながらの道という、思想たりえぬ心のかたちを見直すに充分な時期が現代の荒廃した精神風土に訪れているといえよう。
「思想たりえぬ心のかたち」をといいかえてもよいかもしれない。気息の出入りを口唇の調節によって発語するという、ただそれだけのことにいいしれぬ生命力を感得する。言葉が意味を持つ以前の音のみの世界である。われわれは何にでも名をつけ意味を付加するが、名付けるとはそれを他の群れから掬い取って人間の側へ特定することだ。その瞬間、神性は人間の都合にあった道具に堕する。教祖が疑似神格者となる手の内である。
言霊は、神道にあっては、仏教にあっては呪や真言にあたるといえよう。こんにちこうした意味なき発語は、神仏行事のバックミュージックに過ぎなくなり、ただうわのそらで聞くだけのものとなった。それでよいと、わたしは思う。意味なき世界とは、現代人の意味付け、価値付けの病からの解放であろう。はるか古代から続く神ながらの道とは、おおらかで、あるがままで、そして自己主張しない心の透明性である。日本仏教のある種の明るさもそこに通ずるのである。神と仏の「遠くて近い」あいだである。
さきの宇治上神社参拝のおり、神主さんがわれわれにお祓いをしてくれることになった。
連れの友人いわく「坊さんが神さんのお祓いを受けて、良ろしんやろか?」。わたしは黙って微笑するだけだった。
|