相国寺の創建開山、普明国師(春屋妙葩)の法嗣のひとりに円鑑梵相というひとがあり、梵相の法嗣に春林周藤と国用乾策があり、この春林周藤の弟子で法嗣にわが雪舟等楊がいるのである。
春林周藤は第十六代鹿苑院主であったから、当時もっとも力のある禅僧であった。そのことは「鹿苑院」という特殊寺院について考えると、より歴然とするのである。
鹿苑院ははじめ足利三代将軍義満公の小御所(休息所)であったのを、鹿苑院と改め将軍の菩提寺とし、絶海中津を初代住持とした。そして相国寺が創建されてのちに山内に移したから、鹿苑院のほうが相国寺より古いということになる。さらに、幕府の寺院統制機関である僧録司を当院内に移した時点で「鹿苑僧録司」が成立し、鹿苑院は幕府機関の役割を担う政治的特殊寺院となったのである。
雪舟がこの鹿苑院の徒弟となり、相国寺の修行僧となった傍証を見てみると、雪舟の友人の了庵桂悟の『天開図画楼記』に「蚤(はや)く洛の万年に隷(ぞく)し、師を春林大和尚に承(う)く」とある。ここで「洛の万年」とは京の万年山相国寺のことである。また、彦竜(げんりゅう)周興の『半陶藁(こう)』に「雪舟、諱(いみな)は等楊、軒を雲谷と号す。乃ち前僧録興徳老師の的子なり」とある。前鹿苑僧録司で、この時興徳寺に隠居していた春林和尚の法嗣であるという。さらに万里集九の『梅花無尽蔵』には「本邦に楊公知賓なる者あり。雪舟と号す。何許の人為るかを知らず。初めて名を洛の相国鹿苑精舎の籍に掛け、画三昧を以て仏事と為すなり」とある。
相国寺側の資料としては『万年山聯芳録、巻之四、慶玉軒世代』に「第二世、春林周藤、諱は周藤、字(あざな)は春林、また曰く景蒿(中略)嗣法に雪舟等楊ら数人あり(原白文)」などをあげることができる。
ここで注目すべきことは、『梅花無尽蔵』の「本邦に楊公知賓なる者あり」の一句である。
「知賓」とは「知客(しか)」のことで、修行僧の職位を表す言葉である。それはどんな性格の職位であったかを『禅学大辞典』(大修館書店)から「両班」の項を引用してみると「東班と西班のこと。日本中世禅林の制度では、寺院の経営方面を司る都寺(つうす)・監寺・副寺(ふうす)・維那(いのう)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)等の知事を東班といい、修行方面を司る首座(しゅそ)・書記・蔵主(ぞうす)・知客(しか)・知殿・知浴等の頭首を西班といった。両者は本来交流して叢林の運営にあたるものであったが、東班は経済力を持って寺院の実権を握り、西班は住持に出世することができるという性格から、両班の間に懸隔・対立を生じることもあった」とある。つまり雪舟は、寺院経営の側ではなく、修行専一の側のひとだったのであり、彼がのちに春林の法を嗣ぎ、また中国に渡って天童山の第一座(首座)に着いたのも納得がいくのである。ちなみに雪舟の画業の師、周文は東班のトップたる都寺であったことは興味深いことである。なぜなら西班に属する雪舟が、なにゆえ東班の職業画僧周文に絵を習いえたのかが不明だからである。
そこで、雪舟の出自を考えてみよう。
狩野永納の『本朝画史』に「俗姓は小田、備中赤浜の人なり。今に至り田間に、雪舟の産まれたる地ありといふ」とある。現在の岡山県小田郡小田市である。つまり小田氏がそのまま地名として残るほどの名士の出であった。また赤浜という地は大井庄なる荘園にあり、この荘園こそ相国寺領であったのである。そのことは『蔭涼軒日録』(鹿苑院内の蔭涼軒の寺務録)に「当寺領、備中大井庄の庄主職の事、高倉殿より長老へ、承本都寺を以て推挙せられ仰せらるるなり」とあることからも知れるのである。
推測するに、雪舟は幼時より画才を認められていたが(長男でないために)在俗の画家となるよりも、職業画僧となる道をとらざるをえなかった。そこで大井庄の領主たる相国寺に入門したが、彼の家柄の良さから当時第一級の禅僧にツテを求めえたのであろう。
ところが師の春林はただの政治僧ではなく、雪舟が入門したころは相国寺第三十六世住持(1430〜1431)であった可能性があり、雪舟を画僧の卵としてより真正の禅僧として鍛えるべく教育したに違いなかった。春林の次の言葉にその消息が伺えよう。「無眼子(むがんす)にて布施を受け取ることは、おおいに恐ろしきことじゃ。明眼(みょうがん)人の言句は、いか様なることをしたりとも、自然に面目備うべし。祖師以来、この道を心得ざるをば出家とはいはざるぞ」
禅僧として厳しい師のもとで修行する傍ら、雪舟の画才は隠すべくもなかった。春林が鹿苑僧録司の席にあったころ(1447〜1456)雪舟は二十七歳から三十六歳にわたる壮年期であり、春林の高弟として相国寺内に重きをなしたことが、周文に画技を学びうるに充分な資格となったに違いなかった。彼の飛びぬけた画才と師弟環境とが、西班にいながら東班の周文に師事しえた要因であろう。
さて、雪舟が西班にあって修行専一の生活をしながら、なにゆえ俗縁にまみれた東班の周文につきえたかの外部要因をみてきたが、彼の内面にあってはこの清濁あわせ飲む矛盾はどのように解決されたのであろうか。純禅の立場から見れば、雪舟にいかに画才あろうとも画業そのものは俗事に過ぎないからである。これこそ雪舟の謎である。
私見ではあるが、わたしはこの雪舟の「画僧か禅僧か?」という謎に満ちた矛盾が、「慧可断臂図」にこそ堂々と披瀝され解決されていると見るのである雪舟は中国明から帰朝したさい「大唐国裏、画師無し、画無しと道(い)はじ、只是師無し」と豪語したという。言うまでもなくこの語は『碧巌録』第十一則「黄檗酒糟漢」の「大唐国裏禅師無し(中略)禅無しとは道はじ、只是師無し」の言い換えである。その新帰朝者の気概おおいに結構であるが、あまりに生々しい。青臭い。しかし、この骨太な気概が歳月と漂白という熟成を経て見事に「慧可断臂図」に標榜されたとわたしは見る。
「慧可断臂図」とは、慧可が嵩山少林寺の達磨を訪れ、腰まで雪につかって入門を求めたが許されず、ついに自らの臂(ひじ)を切断して求道の心を示したという因縁を描いたものである。雪舟七十七歳の作品である。老熟期の雪舟が、なにゆえこのような図を主題に選んだのか。
この絵のテーマは伝法の峻厳さである。自らの肉体を切り刻んでなお仏法を、真理を求める命がけの求道である。修行のあまりな厳しさに、この絵を見るひとは思わず立ちすくむであろう。その意味でこの絵は宗教的絵画として完璧な成功を収めたといえる。宗教的主題としてはそれでよい。しかし求道の、伝法の厳しさを表すのなら他にいくらでも禅のエピソードはある。主題はある。なぜ雪舟は「慧可断臂」の場面を選んだのか?
この絵のシーンは単なる求道の厳しさを表すシーンではない。達磨と慧可という二人の人物の「人種」が違うのである。インド人と中国人である。じつは、ここに「慧可断臂図」の隠されたもう一つのテーマを、わたしは見るのである。仏教の本場、インドから中国へと禅仏法が伝わる瞬間こそ、雪舟は描きたかった。それは雪舟にとって水墨画の本場、中国から日本へと水墨画の神髄が伝わるというメカニズムに等しかった。中国から帰朝し、「大唐国裏に画師なし」と豪語し、その自覚を四十年にわたって深め、雪舟が確信したことは自分こそが「日本水墨画の初祖」となったということであった。師周文のような中国様式の模倣に終わらぬ、様式も精神性の高さもともに日本人雪舟画の到達なのであった。そして、そこに禅の求道と伝法の最も厳しいテーマを重ねあわせることで、雪舟にとっての画僧と禅僧という矛盾が、聖と俗という矛盾が見事に超克されてあるのだった。雪舟は画僧か禅僧か?という問いが「慧可断臂図」の前に意味をなさぬことこそ、雪舟の真実の深い謎である。
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