一月三十日。わたしは宗務本所を出て、薄日がさす境内を横切り、人けない本山墓地に向かった。そこは、約八百基の墓石が整然と建ち並ぶ各塔頭寺院檀徒の集合墓地である。 わたしがその日、墓地へ出向いたのは、かねてから改修を依頼していた特殊墓地の工事状況を見るためであった。特殊墓地とは、相国寺との歴史的因縁によってここに安置された三霊位の眠る一画である。それは、鎌倉初期の歌人「藤原定家」、室町幕府の八代将軍「足利義政」、江戸時代の画家「伊藤若冲」である。この、互いに何ら縁なき人たちが、相国寺という仏縁によって、わずか十坪ほどの区画に身を寄せ合って眠っているのは、ただに奇観としか言いようがない。ましてや、定家は公家、義政は武家、そして若冲は町人なのである。生前はおろか、死後とて同居するいわれなど、あろうはずもない。しかしそこに、厳しい歴史の風雪が見てとれるのは確かである。各人の生の歴史とは全く無縁に、死者としての仏縁だけが厳然としてあるのは確かである。墓地改修の理由は、地盤沈下による墓石の傾きである。石材屋は、改修に先立ち、遺骨を本山に仮託してきたのだった。
まず、定家卿の骨壺は半ば割れ崩れ、その土塊の中に、なまなましい骨片が散見された。あの『新古今集』、『百人一首』の選者である天才歌人の、その魂を宿した現物である。次に義政公は、両手にすっぽり入るほどの古壺におしこめられ、土としてのみの姿であった。その土をほぐすと、わずかに骨片らしきものがあったが、定かではない。若冲にあっては土のみである。これはまた何とも皮肉なことである。最も古い定家卿が土葬であるために遺骨の形骸を残し、火葬の義政公の遺骨は土と化し、最も新しい若冲居士は生前の寿塔であるから、遺骨はなく土くれのみなのであった。
その夜、わたしは自坊にあって何か釈然としない思いにあった。互いに無縁の三霊位が、単に相国寺の仏縁のみによって、身を寄せ合って眠るのか。歴史の事実は、この三者が何の関係もないことを証している。しかし、何か共通の事項はないのだろうか。例えそれが単なる偶然であったにしろ、三者に共通した運命がありはしないか。何はともあれ、三者の事跡をごく簡単に記してみよう。
定家卿は、平安貴族文化の落日を生きた鎌倉初期の大歌人である。藤原全盛期を築いた道長の六男から発した左家の名流に属したが、彼の父俊成の頃には公卿の地位から脱落しそうなまでに落ちぶれた。しかし、俊成、定家父子は歌人として重用され、歌道の宗家として後の二条、京極、冷泉家の礎となった。しかし、時代は新興武士の台頭による貴族の凋落期であった。治天の君、後鳥羽院はその落日の貴族文化を守るべく、歌道を始めあらゆる芸道に血道を上げる。そして、定家卿は『新古今集』編纂にあたって、まさにこの後鳥羽院の執拗な介入に苦しめられる。そのため、「承久の乱」の失敗によって後鳥羽院が隠岐に流されると、定家卿はたちまち後鳥羽院の仇敵北条家と縁戚を結び、幕府寄りの西園寺家から妻を迎え、北山西園寺第(後の金閣寺)にしばしば出入りするまでになる。そしてついに正二位権大納言の位に登りつめる。この見事な裏切り行為の真意は、恐らく御子左家の名門復帰と歌道宗家の墨守にあったろう。
室町八代将軍義政公は、父義教が嘉吉の乱で暗殺され、兄義勝が病没したため、わずか八歳で将軍となった悲運の人である。足利幕府は三代義満を頂点として次第に衰退してゆき、下克上や土一揆が頻発する乱世を迎えようとしていた。そのためやがて義政公は政治に嫌気がさし、将軍の務めを投げだしてしまう。これこそが、将軍後継問題に端を発した「応仁の乱」勃発の引き金であった。政治に背を向けた義政公は、大乱のなか東山に山荘を造営し、ひたすら趣味の世界に埋没してゆく。そして義政公の希にみる審美眼と相まって、後に「東山文化」とよばれる一大文化サロンが形成されたのである。
若冲居士とは、京、高倉錦小路の青物問屋主人・枡屋源左衛門の画号である。前二者が、時代の中心にあって歴史の渦に翻弄されたのとは異なり、彼はいっかいの町絵師、強いては専門絵師ですらなかった。しかし、豊かな町衆であった彼は、家督を次弟に譲って隠居した後も、三軒の家を持ち悠々と画作に励むことができた。そしてその作品は『平安人物誌』に載るほど世に認められたものであった。ちなみに、そこでは「応挙、若冲、蕪村」と並び称されている。また売茶翁が「丹青活手妙通神」と賞賛したほどの超絶技巧の持ち主でもあった。彼は相国寺の大典禅師と親交を結び、若冲が生前に建てた寿塔には、禅師の撰文が刻まれている。
以上三者の事跡を簡単に記してまず気づくことは、共に芸術文化の人であったということである。定家卿は歌人、義政公は大パトロン、若冲居士は画家である。しかし、わたしはそうした事跡上の共通項にあまり意味を見いだせなかった。むしろ、彼らの内面に何か共通したものはないか、思案したのである。
山本健吉は『古典と現代文学』で、折口信夫の説として「隠者には三種類がある。一つには、相当の身分の者で隠居生活をする者、二つは、純粋の僧侶、そして最後に、非常に階級の低い隠者である」と述べている。ここにわたしは一つのヒントを得た。つまり、「相当の身分の者で隠居生活をする者」という共通項の発見である。定家卿は名門貴族として、義政公は将軍として、そして若冲居士は裕福な町衆としての隠者趣味である。
「相当の身分で隠者」となるのは、ただに個人的隠者趣味によるのではない。そこには強烈な「負」の時代精神が働いている。それは、歴史的必然だけでは片づかぬ「負の心」でもある。
後鳥羽院が流罪になって、定家卿は独力で『新勅撰集』を編纂する栄誉に浴するが、罪人後鳥羽院らの歌百余首を削りとるよう命じられる。歌道の宗家として、虚心に選んだ秀歌に再び政治的横槍が入ったのである。『新古今』に次ぐ無惨な敗北だった。
晩年、定家卿は嵯峨小倉山山荘で私撰『小倉百人一首』を編む。それは、後鳥羽院へのまぎれもない鎮魂であった。なぜならそれら百首の歌には天皇(陽成、三条、崇徳)貴族(小野篁、源融、在原業平、菅原道真)等、悲運の最期を送った人々の作が鏤められ、しかも最後の二首は後鳥羽院とその子順徳院(佐渡流罪)の怨念の歌であった。
小倉山の隠者定家卿は、『百人一首』の編纂によって西行、兼好、芭蕉と続く隠者の文学の礎ともなったのである。
義政公の「東山文化」もまた、隠者の文化であった。彼は生涯、東山殿の造築にこだわり続け、それとてついに未完に終わったのだった。公人としての挫折と孤独が、造築・造園という「人工の楽園」に変換される。その楽園の外、現実の世は飢餓と戦乱に苦しむ民たちの地獄であったが。人工の楽園には現実を救うエネルギーは望むべくもなかったが、書画骨董があふれ、人材があふれ、皮肉にも日本文化の最高峰とされる「東山文化」が形成された。それはやがて「わび、さび」という隠者文化の底流になる。
若冲居士は生来の隠者だった。彼は前二者のように公人としての挫折から隠遁したのではない。天才画家が、たまたま商家という場違いな世界に生まれたにすぎない。だから、彼の絵画は必ずしも隠者の風ではない。むしろ、華麗な「動植綵絵」は「わび、さび」といったトーンとは無縁である。しかし、わたしは若冲画の異常なまでの細密描写に、かえって「隠者」の匂いを感じるのである。彼が家業を譲り、画業に専念したことは異常でも何でもない。むしろ彼はあまりに平凡な生活者だった。しかし、その平凡な生活者があれほどまでに「細密」に埋没するとき、わたしは隠者としての狂気を感じる。無限に現実から遠ざかる静かな狂気である。
相国寺墓地の一画に、無縁の三者が眠るという一事から、長々と思いを馳せた。そして三者に「隠者の系譜」を見た。どうやらこれらの偶然は、わたしに日本文化の一つの型を見せてくれたようだ。つまり、歴史の負の部分にこそ深い精神性を持つという日本文化独特の型である。
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