少年(178号所収)

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  平塚 景堂

京都・養源院住職


 左の目の不調が余りにながく続くので眼科に行ったところ、黄体変性といわれた。原因不明、不治の眼病である。なにしろ視界の中央に薄茶色の円盤が張り付き、物の輪郭線がゆらゆらと歪んで見える。残る右目も衰弱し始めていて本を読むのが相当困難である。
 読書を全くやめたわけではない。込み入った本を敬遠してしまうのだ。すると不思議や、込み入った思考ができなくなった。頭脳はまだ充分明晰のつもりが、情報入力が単純化されたものだから、直感に頼ってすぐに結論づけてしまう。家人曰く、「急にとんでもないことを言い出すから要注意!」。このままだと孤立無援の晩年を迎えそうだ。
 釈尊は生老病死の四苦を人間の根本苦と捉えた。生老病死だけならあらゆる生き物の共通した宿命に過ぎない。しかし人間に限ってだけ、精神の成熟と肉体の衰弱が反比例すると考える。せっかくながい経験を積んで成熟した精神が、衰えゆく肉体によって元も子もなくなるのだ。これは耐えられない屈辱だろう。四苦を不条理と嘆く。 

松か枝の藤のわか葉に千とせまで
     かかれとてこそ名づけそめしか

 これは、観阿弥の息子、鬼夜叉のあまりの美童ぶりに驚いた二条良基が「藤若」という童名をその少年に与えたときの歌である。藤若は長じて世阿弥と名乗る能の大成者となる。
 二条良基とは何者か? 五摂家のひとつ二条家の名門貴族にして、後醍醐・光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に仕え関白・摂政にまで登り詰めた第一級の政治家であり、また当代随一の歌詠みでもあった。これほどの文化人が、当時卑賤の庶民芸能たる猿楽一座の子役に、身も世も在らぬ惚れ込みかたをする。

「なによりも又顔立ち、(フリ)風情ほけほけとして、しかもけなわ気に候。かかる名童候べしとも覚えず候。(中略)春の曙の霞の間より樺桜の咲きこぼれたると申したるも、惚けやかに、しかも花のある形にて候‥‥」

 良基のこの消息文、藤若への恋情がまだ切り無く続く。かつて貴顕の士には衆道(しゅどう)の風があったことを差し引いても、なかなか理解しがたい見事な「惚け」ぶりである。南北朝の動乱を、はじめは南朝、次に北朝とうまく泳ぎきって、摂政現職のまま没した老獪な政治家のこの「惚け」ぶりはどうしたことか。若き日の世阿弥のカリスマ性もさることながら、老熟した良基の精神を忽ちのうちに単純化してしまう強靱な反作用が何か働いたと考えざるをえない。注意すべきは、良基の心を打ちのめしたのが稀代の美女ではないということだ。それならどこにでもある月並みな「老いらくの恋」に過ぎない。かれを打ちのめしたのは少年のもつ清澄な「未熟」である。「未熟」さがもつかりそめの美であった。完成されたもの、不動に構築されたもののもつ永遠の美ではない。生老病死というどうしようもなく不条理な根本苦を知る人間のみに感応する単純性である。そこに「少年性」の本質がある。世阿弥本人もまた、「少年性」の本質を見抜いていた。『風姿花伝』第一「年来稽古条々 十二・三(歳)より」に曰く、

 まづ童形なれば、何としたるも幽玄なり。声も立つころなり。ふたつのたよりあれば、わろきことは隠れ、よきことはいよいよ花めけり。(中略)さりながら、この花はまことの花にはあらず。ただ時分の花なり。(中略)さるほどに、一期の能の定めにはなるまじきなり。

 少年のもつ花(美)はかりそめの花だという。そこに少年性の本質もあり、また危うさもある。
 一方、美童は女装すれば本当の女性より美しくもあり、同時にその素顔は男性の荒々しさも秘めていよう。両性を超越したところに少年性があるともいえる。
 世阿弥が大きく世にでたのは、実は二条良基の引きもさることながら、今熊野の能で若き足利三代将軍義満の目にとまったことによるのだった。世阿弥十二歳のときである(「観阿、いまぐまのの能の時、さるがくと云事をば、将軍ろくおんいん、御覧はじめらるるなり。世子十二の年なり」)。
 ところが、将軍義満(鹿苑院)はこのとき十六歳であったといわれる。初老の二条良基とは自ずと寵愛のポイントが違う。義満が少年世阿弥にみたものはなんであったろうか。
 どんな美童とて生老病死の鉄則は逃れられない。まさにはかない花として散らねばならない。
 では美童がやがて声変わりして、青年に至ったならば少年芸の魅力はどう変質するのか。稽古条々の十七・八(歳)よりの段。

 まづ声変わりぬれば、第一の花、失せたり。(中略)このころの稽古には、ただ指をさして人に笑はるるとも、それをば顧みず、(中略)心中に願力を起こして、一期の堺ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。

 美童として在るがままの花を芸としていた時期は過ぎ、十七、八の青年ともなればその生き方を決定する生涯のテーマを打ち出してゆかねばならない。そこから少年の純粋性を人間的美に昇華させる猛烈な苦闘がはじまる。生老病死の根本苦との真っ正面むいた戦いともいえよう。このように、少年と青年はかくも厳しく峻別されていた(十五歳を元服としたことを想起しよう)。

 現代、「少年」とは何であるか? 昨今多発する信じがたい残虐な少年犯罪と、かれらを過剰保護する少年法について、ここで議論を展開する余地も用意も、残念ながらいまはない。

 平成六年九月二十八日、当時十九歳の少年A、B、Cは大阪道頓堀橋で林正英さん(二十六歳)にいんねんをつけ、拉致監禁殺害。遺体を高知県山中に捨てる(大阪事件)。
 その八日後、三人は愛知県稲沢市で岡田五輪和さん(二十二歳)にリンチを加え木曽川河川敷に放置死亡させる(木曽川事件)。
 その翌日、三人は江崎正史さん(十九歳)、渡辺勝利さん(二十歳)を長良川河川敷でリンチ殺害(長良川事件)。
 
 この三人の殺人鬼は十九歳であった。そして刑法はかれらに「少年」としての保護を加える。現行刑法がある限りしかたのないことだ。しかし、刑法における「少年」という概念の何という無自覚さだろう。十九歳という年齢は、本来なら願心を起こし生涯の生き方を決めるべき年であって、その時点でこの三人が無差別殺人の道を選択したのなら、もはやかれらは断じて「少年」などではない。否、人間以下の何者かだ。
 世阿弥は「少年」をかりそめの花ととらえた。だから世阿弥は「初心忘るべからず」という。円熟完成した芸のなかにこそ初心(少年性)を、かりそめの危うさを加味するを忘れるな、と。それが芸なのだ。二条良基が執心した世界なのだ。身はやがて病み老い衰える。それは根本苦として受け入れねばならない。しかし多くの人間はそれほど強くはない。かりそめの花でも幻影でもよい。過酷な現実を少しでも癒してくれる夢を追う。そこに応える芸の円熟がある。初心を、少年性を湛えた至芸がある。

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